◇ ◇ ◇ 2 ◇ ◇ ◇
結局。
昨日のことを夢だった事にして忘れるなんて、出来るわけもなく、微妙な違和感を引きずった日常を私は過ごしている。
そりゃあそうだ。
あんなことを忘れろってのが無理な話。
無理難題。無茶苦茶だ。
そもそも何が起こったのかすらきちんと把握できてさえいないいっていうのに・・・。
今の現状はしかたがない、というのが現状だ。
しかたない、という現実逃避。
分かっていると思うが、私はいままでこんな奇妙な事件にあった事のある不思議少女でもないし、奇怪な出来事ばかり惹きつける主人公体質でも、ない。
そんな経験は今までの人生で一度もなかった。
普通に普遍に平穏に暮らしていたから。
暮らしていたはずだったから。
まあ、その私を支えていた微かな希望ですら、昨日の事件で足元から崩されてしまったわけだが。
「おはようございます」
だから、学校に登校中の私に、あの純白の赤、自称兎の全身白男が現れて、いきなり気軽な声で挨拶をされた事で、私は相当絶望していただろう。
この、意味不明な現実に。
「あんた・・・一体なんなのよ・・・」
少々、呆れ気味に問いかける。
「昨日申し上げた通り、兎でございます」
返事は変わらない。
兎、か・・・。
「ウサギ目に属する草食哺乳類の総称であるが、多くの場合、ウサギ目のうち耳の小さいナキウサギ科を除いたウサギ科の動物のみを指し、外敵から身を守るために発達した四方に旋回する大きな耳と、脱兎の如(ごと)くなどと例えられるような俊足ぶりや、遠くの音を聞くために立って音を聞くことが出来るように発達した長い足が特徴的であり、門歯が伸びることなどから古くはネズミ目に類縁が深いとされている、うさぎです」
「そんな説明いらないよ!ていうか長いよ!」
なかなかの面白いキャラだった。
いや、面白い兎だった。
「というのは本気で」
「冗談だろ」
「お迎えにあがりました」
「・・・」
私は学校に送迎された記憶はまったくない。
というか、こいつは徒歩だ。いきなり現れたあたり、私を先回りしていたとしか思えないが、とにかく乗り物に乗って現れたわけじゃない。
「学校くらい自分で行けるわよ」
「学校・・・?一定の場所に設けられた施設に、児童・生徒・学生を集めて、教師が計画的・継続的に教育を行う機関で、学校教育法では、小学校・中学校・高等学校・大学・高等専門学校・盲学校・聾学校・養護学校および幼稚園を学校とし、ほかに専修学校・各種学校を規定している学校の事ですか?」
「それはもういい!」
「はて。てっきり昨日の事を経験した貴方なら、私が案内する先が学校などという陳腐なところだとは思い浮かばないはずですが」
「う・・・」
そうなのだ。
昨日の今日で理解出来るはずもないのだが、こいつはそういう存在なんだろう。
だって、空間を裂いて去っていったんだから。
そんなありえない事が出来るのは、ありえない存在だからだ。
「ていうか陳腐っていうな・・・」
必死の抵抗を見せるが兎は構わない。
「時刻が少し早くなっています。今落ちないと向こうとの時間軸がずれてしまいます」
「まって。まってまって。きちんと説明してくれないと何がなんだが」
分からない、のではなく。
分かりたくない。
常識を覆さないでくれ。
「説明してる暇はありません。時刻がずれてしまいます」
そう言って自称兎は私の手を取って走る。
「ちょ、待ちなさいよ、訳わかんないって」
「説明なら落ちてからゆっくりして差し上げます。今は時間がないのです」
落ちる?
落ちるってなによ。
なにからなにまでこいつの言葉は分からない。
とにかく急いでいるという事くらいしか理解出来ない。
走る走る。
そこで異変に気づく。
またも、退屈が崩壊を始める。
「え・・・?」
周りの景色の流れていく速度が、昨日の出来事のように序々に序々に速くなっていく。
否、私達の走る速度が上がっている。
「ちょっと、これどういう事よ!」
「時刻が早まった分向こう側の時間に合わせているんです。あまりしゃべらないように。舌をかみますよ」
速度の上昇は止まらない。
風景がにじむ。
全ての建物が私達を避けていく。
直進を続けている。
「違います。彼らが避けているのじゃありません。空間軸をずらして曲がり角を直線にしているだけです。とにかく、時間がないですから」
もう、この際どっちでもいい。
どっちでも、理解は不能だ。
景色はもうただの壁になりつつある。
世界が急ぐ。
向こう側を追いかける。
兎が走る。
時計を追って。
時間がない、時間がない。
呟き、走ち続ける。
世界が走る。
私の思考は止まったまま。
私の身体は意思に反して。
私の意志は世界に順じて。
そしてまたも唐突に自称兎が言う。
「そろそろ追いつきます。追いついた時点で向こう側に落ちますので、気をつけて。ああ、時間がない」
「だから落ちるってどういうことな―」
そこまで言って、身体が止まる。
いや、世界が止まった。
正確には、進む向きが前から変わり、垂直な真下へ、落ちる。
ひゅん。
純粋な落下運動を始める。
その直前、兎は言う。
「それでわ、また向こう側で会いましょう」
そう言って、空間に消えた。
私は置いてけぼりだ。
いや、それは少しニュアンスが違う。
ものすごい速度で世界を落下しながら、私は落ちてけぼりにされた。
◇ ◇ ◇ 3 ◇ ◇ ◇
覚えているのは、落ちた、という事実だけ。
あと感覚。
重力に身を任せた落下の感覚。
体が覚えている。
でもそれだけ。
分からない。
一体ここは、なんなんだろう。
彩度の低い赤と白のチェック柄の壁に、それぞれ形の違う、無数の時計がぶら下がり、あるいは立てかけられ、あるいは転がっている。
全ての時計の時間はひとつとして同じものはない。
無造作に散らかった時計の針も、無造作に動いている。
「なんなんだろう、ここ」
まあ、正確にはどこなんだろうだけど、ニュアンス的には、なんなんだろう、で合ってると思う。
とにかくわけ分からない状態である事を伝えたいだけだ。
チクタクチクタク、カチコチカチコチ。
時計の音は止む事なく、私の混乱もあんまり落ち着かない。
まあ、それは思考の混乱。
表面下での知識の食い違い。
「とりあえず・・・突っ立っててもしょうがないか」
だからそういう行動にでた。
行くあてはある。
というか、この部屋には一つしか扉がないし、そのほかには窓もないし、小さな穴さえない。
結局、この扉を開けるしかないのだ。
ある物語に準じているなら、この先小さな扉が連続して私を迎えるんだろうなとか、考えながら、取っ手に手をかける。
ガチャリ、と捻り、扉を押す。
「・・・・・・あれ?」
扉は続かなかった。
代わりに大きな部屋に出た。
内装は変わらない。
彩度の低い赤と白のチェック柄の壁。
けれど、時計は整然と並んでいる。
均等な感覚で、ある物の上に。
「えーっと・・・・。どれに入れと」
それは扉。
無数の扉。
大きさや形や色や材質の異なる扉が十三。
円形の部屋の壁際に整然と並んでいる。
そして、その扉の上には、時計。
「なんなのよ・・・」
もう、わけのわからなさには慣れてしまった。
だから、自称兎がいきなり背後から現れたからって、あんまり驚きもしなかった。
「ここは、世界のロビーです」
「・・・あんた、どこにいたのよ」
「あれ、意外にも冷静ですね」
なんて事を言いながら、私の横に並んで立つ。
真っ赤なリボンが目に痛い。
「もう、いい加減慣れたわよ・・・。不本意だけど」
「いいえ、世界にとっては本望かと」
「ま、そのわけわかんないしゃべり方はどうにも気になるけどね。洗いざらい説明してもらいましょうか。兎さん」
私は振り向いて言う。
「ええ、説明します。貴方の問いかけに対してなら」
「ふーん。また妙な言い回しね。まあいいわ。まず、ここはどこなの?」
「世界のロビーです」
きっぱりと言う。
「私に分かる言い方で説明しなさい」
「おや、いきなり強気になりましたねアリス。少し混乱が落ち着いたらもう怖いものなしですか」
「それはなに?皮肉なの?それに私の名前は鈴沙。アリスなんて名前じゃないわよ」
「いいえ、貴方はアリスです。鈴沙、とお呼びした方がいいのでしたらそう致しますが」
なんか、私の名前を呼ぶのは妥協案らしい。
なんでだ。
「いや、だからそもそもアリスってなによ。私は私でしょう?」
「ええ、貴方は貴方。貴方はアリスです。鈴沙と言う呼称は貴方のご両親がつけた文字に過ぎません」
「なによそれ。別に親を擁護する気はないけど、私は私。私は鈴沙。そこは譲れないんだけど」
少しばかりムキになって反論するが、兎にとってはやはりどうでもいいことらしい。
そもそも兎はこちらを向いていない。
正面を見据えたまま、話を続けている。
「まあ、いいでしょう。あなたのことは鈴沙と呼ぶ事にします。それでいいですか鈴沙」
「ええ。そうして頂戴」
本題があった。
「兎さん、ここがどこなのか分かるように説明してくれるかしら」
兎はこちらをようやく向いて話し始めた。
「ええ、分かりました。まずこの世界の存在から説明しましょうか。そうですね、分かりやすく言うと・・・鈴沙、平行世界という概念は分かりますか?」
「平行・・・世界」
なんとなくは分かる。
この現実世界と別に、現実の世界があるという考え方。
「まあ、なんとなくは。SFの世界のようなものでしょ」
「簡単に説明するなら、平行世界とは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)のことです。並行世界や並行宇宙、並行時空とも言われたりします。そして、その平行する世界は無限の数存在し、全ての世界が現実であり、全ての世界が平行なのです」
「・・・まあ、簡単に頼むわ」
そして、と兎は続ける
「その無限とされる世界の中でも、最も実現性の高いものが十三世界存在します。その中の一つが、鈴沙が現実としている世界です。主に、科学が急激な進歩を遂げている世界。他にも、科学と称されはしないものの、似たような世界も存在しますが、今のところ実現性の高い世界は鈴沙の現実世界だけです」
「私達の世界はその十三の世界のうちの一つ、という事よね」
「そうです」
「じゃあ・・・」
と、部屋の壁、否、十三の扉を指差す。
「あのうちの一つが私達の世界に繋がっている、という事?」
「ご名答。その通りです」
兎は笑顔で言う。
多分心の底からは笑っちゃいないんだろうけれど。
「そして、残りの十二の扉にも、それぞれ十二の現実世界が繋がっています。そしてここが全ての現実世界へと繋がる部屋、世界のロビーという事です」
「・・・」
分かった。
世界のロビー、その単語の意味することは分かった。
学校の授業をそんなにまじめに聞いてなくても、普通の生活を送ってても、今の話は分かる。
理解、出来る。
だから、次だ。
「で?私はなんでここにいるの?」
「鈴沙、貴方がアリスだからです」
「アリス・・・・・・・ねぇ」
この兎は毎回毎回、分かりやすいように説明しろと言わないと、妙な言い回しをしてくるんだろうか・・・。
「で?なんでアリスがここにこなくちゃいけないわけ?」
だから、私は、私が私でない理由を無視する事にした。
「何を私にしろって言うの?」
「世界を救ってもらいます」
「・・・・・・・・・・・・・・はい?」
はい?
思わず地の文でも聞き返してしまった。
世界を、救う?
何よそのアニメみたいな設定。
突然すぎて笑うしかない。
「あんた・・・私になにを期待してるのよ」
やや苦笑気味に言ってやる。
あまりにも出来すぎた小説のようだ。
突然自分の知られざる能力を伝えられて、その能力で世界を救う不思議少女ってところか。
出来すぎだ。
ほんと、笑うしかない。
「別に期待はなにもしてません。貴方は貴方であればいい。アリスという存在に意味があるのです」
それはなんか、笑えない。
「ただし貴方は選ぶ権利だけはある。あなたは開く扉を選んでいい。もちろん、元の現実世界の扉を開けてもいいし、別の扉を開けてもいい。それは貴方次第だ鈴沙」
最後だけは鈴沙なんて呼びやがって。
私は私じゃなくてもいいのかよ。
アリスであるだけで、私でなくていいのかよ。
「だから、私はもう消えます。先に別の世界で待っていますので」
すぐに消えた。
あっけなく。
余韻も何もなく、一瞬で。
「ちょっと・・・」
一人にしないでよ、こんなわけわかんない所で・・・。
不安になったのもあるし、混乱のまま終わったって事もある。
だからかどうか知らないが、私が私じゃなくても、これだけは言えると思う。
「結局、どうしろと?」
虚しく、部屋の木霊した。
◇ ◇ ◇ 4 ◇ ◇ ◇
私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
目の前には13の扉が、今か今かと開かれるのを待っている。
13の世界に繋がる13の扉。
「大体、十三の現実世界ってなによ・・・」
現実世界は現実世界でしかない。
私の思い浮かべる現実世界とは、確かに一つしかない。私にとっては普通とされる、朝起きて朝食を食べ、学校へ行き、授業を受け、部活動のある者が部活へ行き、放課後友達と遊び、家に帰り、ご飯を食べ、風呂に入り、弟とテレビの取り合いをしたりして、布団に入り、一日が終わる。
当然として存在する、普通、という世界。
私にとっての、現実世界。
確かに、私にとっての現実世界はソレだ。それに間違いはない。
けれど。
私じゃない者にとっての現実世界。否、私にとっての現実世界以外の者にとっての現実世界とは、私のソレとは違い、また別の現実世界として当然のように存在するのだ。それが、平行世界という考えの根底。
別の世界がある事が、この世界がある事への証明。
昔、テレビで聞いた事がある。
「例えばの話ですよ」
あれはSFの関係の番組だっただろうか。
「仮に私たちの世界以外の世界があったとしたら、その世界の何者かも私たちの世界を認識しているのですよ。もし、この状態になれば、もはや卵と鶏の話と同じ。どちらが先に認識したのか、そんな事は分かりません。けれど、お互いに認識しているという事実。つまり、平行世界の概念とはね、もはや信念にしか過ぎないのだよ。あると思えば、ソチラの世界の何者かも、コチラの世界の存在を認識するし、ないと思えば、ソチラの世界の何者かも、コチラの世界の存在を認識できない。不可知論、とトマス・ヘンリー・ハクスリーは言いましたか。それに可知論が合わさったようなものですかね」
そんな事を言っていた記憶がある。
なら、私はもうこの世界の認識に堕ちた。
この意味不明な世界の事情を認識してしまった。
なら、この世界は私を認識している。
だから・・・・どうしたと言うのだ。
兎は言った。扉の中の私の現実世界への扉を開ければ、私は私の世界に戻れる。もちろん、どの扉かは分かる。扉に名前が書いてある訳ではない。感覚として、認識はできるのだ。
だから、その扉を私があけてしまえば、この意味の分からない世界からはさよなら出来るのだろう。おそらく、出来るはずだ。これも感覚がそう言っている。
いつも通りの生活に戻り、いつも通りの生活を送り、いつも通りの生活に浸かり、いつも通りの生活に溺れ、いつも通りの生活に埋もれ、いつも通りの生活に塗れ、いつも通りの生活に支配される。
それは・・・私の望んでいるはずの結果なはずだ・・・。
それは・・・・・・・・・本当に・・・・・・・・・そうなのだろうか。
私の手は、一つのドアノブを握っていた。
時計の針は6つ。数字は6つ。左から数えて8つ目。右から数えて6
つ目。赤い古代ギリシャのような装飾が施された大きな扉。ゆうに私の身長の二倍ほどはあるその扉のドアノブを、握っていた。
「何が救ってほしい、よ。方法も手段も理由も根拠も言わずに要求だけ通して消えるか普通。あのくそ赤兎が」
言葉の怒りと反して、心は静かに落ち着いていた。
手に汗は握らない。心は未知に震える。
「いいじゃない、救ってやろうじゃないの。そろそろ普通の生活には飽き飽きしていた頃なのよ。なんの利益も刺激もないあの世界じゃ私は死んでるも同然だったしね」
結局、救ってやるだなんて言っておきながら、私は自分自身の好奇心に負けていただけだったんだろう。
既知への絶望。未知への興奮。
「この先の世界が私の知ってる世界とほとんどなにも変わらなかったら知らないわよ、あの兎。取っ捕まえて鍋にして食ってやるわ。ええ、いいじゃないの。上等よこの世界。待ちわびた。漫画やアニメみたいだと馬鹿にしていたわ。ええ、もちろん今でも心の底から馬鹿にしてる。こんなベタベタな設定なんて心から笑うしかないけど」
「―――心の底から心底楽しみに始めるとするわ」
ドアノブを捻る。
勢いよく扉を開け、一歩踏み出す。
床の感覚はない。
沈みながら前へ進む。
暗闇に見える無色の大地。
私は、落ちている。次の世界へ落ちていく。
私の意思で。